「誰かのために」ではなく「自分のために」生きる
世のため、人のために頑張った方が良いと思う。
それは分かっている。
分かっているけれど僕はしばらく自分のために生きると決めた。
就活の時から社会のためを意識していた
大学3年生の時から「どういう社会をつくりたいか」を意識していた。
自己啓発セミナーにもたくさん参加して自分がどんな社会を作っていきたいか考えた。
当時の僕は「明るく元気に働く大人を増やしたいな〜」と思っていた。
そしてそのためには自分が明るく元気に働く大人にならなきゃと思っていた。
当時は言い訳したり人のせいにしたりしている人はダメな人だと思っていた。
ダメっていうか、そんなことしても何の問題解決にもならないのにって思ってた。
人のせいにしても何も解決しないから自分が変わるか行動を起こさないと意味がない。
「全ては自分が源である」と思ってる。
この考え方は今でも変わらない。
「明るく元気に働く」を掲げていた僕は病気になった。
「明るく元気に働く大人を増やす」というビジョンを掲げていた僕は適応障害という病気になった。
詳細は別記事にまとめている。
2年目の中盤くらいから僕自身は明るく元気に働けてはいなかった。
苦しかった。
お客様のため、会社のため、チームのために僕は頑張っていた。
自分のためには後回しだった。
お客様のためや社会のために頑張れば売り上げやスキルアップという面で自分のためになると考えていた。
確かにそうだと思う。
巡り巡って自分のためになる。
でも体調を崩してしまってからでは遅いのだ。
そこに自分がいなくなってしまう。
もっと「自分のため」でいい
適応障害という病気になって感じたことはもっと自分のために生きていいということ。
なんならわがままでもいい。
好きなことする。
楽しいことをとことんする。
休むときはしっかり休む。
嫌なことはできるだけしない。
大人になったらなぜかやりにくくなっているこれらのことをやろう。
自分を満たそう。
ストレスを減らそう。
誰かのために生きるのはそれからでも遅くない。
言い訳だってしたっていい。
僕は言い訳できる人がすごいと思う。
ストレスを溜め込まないから。
それで人に迷惑をかけるのは良くないけど。
僕は言い訳できる人が羨ましい。
人を幸せにできる人は自分が幸せな人だけ
僕は誰かを幸せにできるのは自分が幸せな人だけだと思う。
自分が持ってないものを人に分け与えることはできない。
分け与えたと思っているものは実は空っぽだったりする。
腹ペコの友達が食べ物をくれて、
「俺はお前がお腹いっぱいになればそれでいいんだ」って言われても
嬉しくないですよね?
僕は嬉しくないし遠慮しちゃう。
win-winではないですね。
だったら半分こして2人で食べて、一緒に食べ物を探しにいきたい。
これならwin-winだ。
みんなが自分のために生きて、
力を合わせて誰かを幸せにするのがいい。
そんな僕にも夢がある
自分のために生きると決めた僕にも誰かのためにこれをやりたいという夢がある。
それは「僕みたいなメンタル面で体調を崩した人を支援すること」「楽しいことだけやって稼ぐ仕組みを作ること」の2つだ。
まだまだ闘病中ではあるが僕は周りの人に恵まれた。
文章を書くことが好きだと知ることができてブログを始め、収益も出始めている。
趣味を楽しむ仲間もいてYouTubeに趣味系の動画もあげることができている。
僕は本当に幸運だ。
だから僕が幸せになったときにはこの情報を分かち合う。
僕のように苦しんでいる人を助けたい。
だからもうちょっとだけ自分のために生きていく。
幸せになるまでもう少し。